公平であることと公正であることの違い

ーーわかったんだ。
ーー何がですか?
ーーずっとひっかかていた問題に対するひとつの答えが。
ーーというと?
ーー村上春樹の小説の中のどこかに「『僕は公平であったとは言えないが、ずっと公正であろうと努力してきた。』公平であることと、公正であることは全く別の事柄なのだ。」というような、内容を記した文があったんだ。"というような"と言うのはこの文章は正しい引用ではなくて、結構探したんだけれど、どの小説のどの部分だったかどうしても見つからないんだ。だから、正直に言って、比べられていたものが「公正」と「公平」であったかどうかも定かでない。でもだからといって、この問題が僕にとって最重要な問題のひとつであることには変わりはない。公正であることと、公平であることはどう違うのか。
ーーもし根本の問題が間違っていたのなら。その答えに意味はないのではないですか?
ーーこの"表現"が正しいものであったかどうかはそれほど重要な問題ではない。我々のこの得体の知れない"心"と呼ばれるものは言語化した時点でその多くを損なっている。"言語"はただの道具にすぎない。そして同じ言葉であってもそれに対する個人のもつ世界によって、どのようにもとらえられる。であるから、引用としては正しくないかもしれないが、僕にとって春樹の示した問題は"この形"で存在したのだ。そしてこのような、言語がただの道具にすぎない、という事柄自体が今回の核心に近づく最も重要なキーでもあったんだ。

ーーふむ。
ーー公平であることと公正であることの違いはなにか?を考えるのは、それら、ふたつの"言葉"を春樹がどうとらえていたかを考えることである。国語辞典で『公平』と『公正』という言葉を引くと、どちらも『平等』という同じ言葉にでくわすことになる。では、彼の世界ではこれらの言葉をどのようにとらえていたのだろうか?
ーー確かに村上春樹の小説には公正という言葉が何度も出てきますし。興味ありますね。
ーー彼は小説を書くときに日本語を彼独自の体系に再構築し表現している。彼がエッセイの中で文章について語ったことをかき集めて、少なくとも僕は彼がそうしているのだと理解している。そのような手法は彼が日本の小説よりも、海外の小説を偏愛し読んでいたことにいくらか起因するのだろう。彼が小説を書くプロセスは、"心"を言語化し、それら言語を平易で体系化された文に落とし込む、という形であると考えられる。彼は、その中でもともと、『公正』という言葉を"fairness"に近い形でとらえていたのではないか。そして日本語の「平等であること」と英語の「平等であること(fairness)」にはその歴史的背景から考えてその意味合いの本質的な部分に"違い"があるのではないか、ということに気がついたんだ。
ーー歴史的背景?
ーー日本の歴史において平等と言えば『四民平等』を思い出す。士農工商という生まれ持った肩書きを無くし、我々日本人は同じであるとした。我々は同じでもいいのだという平等である。それに対して、自由と平等の国アメリカには黒人と白人と黄人がいて、彼等の平等とはその違いを許すことだった。我々は違ってもいいのだとい平等である。これらは同じ平等でありながら、いささか違うことではないだろうか?村上春樹は『公正』という言葉をこの『我々は違ってもいいのだ』という思想に対して用い、公正と公平における平等の概念の違いを感じていたのではないか。というのが僕の出した答えだ。
ーーなるほど。
ーー僕にとって『公正』であろうとすることはずっととても重要な事柄だったんだ。いままで『それは絶対に間違っている』と感じるにもかかわらず、その怒りの理由がうまく説明できなかったいくつかの事柄に対して、その本質に近づくことが出来たと思う。公平としての平等が公正を無視して振りかざされるとき僕は『おまえは絶対に間違っている』と感じたのだ。公正であろうとするというのはなかなかタフな生き方だ。だが、君と僕はあまりに違う、これは確かだ。人を"理解"するというようなことは、この世界のあらゆる事柄と同じように、その本質にせまるほど絶望的に不可能であるように感じられる。しかし、もちろんそれは"全く"不可能なことではない、永遠の闇に光が射す瞬間が"必ず"あることと同じように。