パブロ・ピカソ

91歳まで生きたピカソの170点の作品から見えたのは
彼の生きた時代であり苦悩であり人生を通した追求の姿であった


ピカソは無から有を生み出すような圧倒的な天才性をもったタイプというよりも
その凄さは強力な集中力と継続力、マクロな視点と相対化を伴う絶妙なバランス感覚にあるように思える
ピカソを世界で最も有名な画家とした秘密は
芸術による探求への圧倒的なバイタリティとその中に見える
彼の女に対するだらしなさや弱さの生む暴力性のような世俗性の共存にある気がする
彼は僕らと同じ人間であり
その心の世界を僕らよりはるかに上手に解体し再構築し表現した
そして91年間それをずっとやり続けたのだ
とてもかなわない
でも今こうして僕はそれを少しでも感じることはできる
そしてその中で救いであったのは
彼の晩年の絵がもっとも美しく安らかであるという事実だ


生涯を通した探求の結果、彼の目に何が見えたのかはわからない
彼ははっきりと自己の中の山羊かケンタウロスだかと対峙していた
深淵の中ではっきりとした何かにたどり着くということがあるのだろうか
僕にはどうもそうは思えない、それはあまりにも深く暗く広い
たとえそうであったとしても
彼は間違いなく生涯踊り続けていた
おどろくほど上手に
そして僕には彼の晩年の絵が最も安らかであるように見えた
彼は最後に描くことをはっきりと楽しんでいるようだった
その事実は僕を救い勇気を与えてくれる


tokyo PICASSO「巨匠ピカソ 愛と想像の軌跡」

カサブランカに出てきたんだけど

a lot of water under the brigeで
たくさんの時がながれました
転じて,いろいろなことがありました
といった意味になるんだって
しゃれてるね〜


人間っていうのは
外からの刺激とそれに対する反射的行動の間に
思考をはさむことのできる唯一の動物なんだってさ
例えば最低な出来事がおこっても
それをどうとらえ反応するかは本人に全ての決定権があるってわけ
そのことにアウシュビッツの収容所の中で気づいて
そのことを伝えなくてはいけないと思って
「夜と霧」を書いたんだって
説得力あるね


唯一の動物ってのはいいすぎかもしれないけどね
ねこだって自殺するんだしさ


まぁいいや
だってそんなこと知ったって気休めにしかならないんだから
彼がラッキーだったのはその事実に気付いたことじゃなくて
それを伝えなくちゃってことがわかったことだもん
そうは思わない?


ゆっくり歩けたくさん水を飲めって誰かが言ったよ
やっぱりそこに何かがある気がするんだ
勘はいいほうでね
井戸の底におりていってしばらく座っているようなことが
そういうことが必要な気がするんだ
必要な間だけさ
遅かれ早かれそういう期間がどこかでないと
深みってのが無くなった人間が出来上がってしまう気がするんだよね


でもいつだってどこまでが言い訳なのかわからなくなる


うん
そうなのかもしれない
僕は深みのある人間ってのが好きなのかもしれない
中でも特に2つの相反する深みを持つ人間が
ははは。
それってカラマーゾフ

寝そべったりなんかして、読んでもらいたくない

5つか6つのときから本は寝る前に寝っ転がって読んでいたので
今でもだいたい本を読むときはごろんと寝そべることが多い。

寝転がって本を読むことに関して考えるとき僕はいつも
サン=テグジュペリのことを思い出す。
それは、「星の王子さま」のなかに

この本を、寝そべったりなんかして、読んでもらいたくないからです。

という一節があるからだ。

僕にとって星の王子さまといえばこの部分である。
僕はこの一言を読んでサン=テグジュペリはなんてすばらしいんだろうと思った。
僕の好きな人間というのは、そういうことを言う人間なのだと思う。


以下がその部分の引用

 だけれど、ぼくたちには、ものそのもの、ことそのことが、たいせつですから、もちろん、番号なんか、どうでもいいのです。ぼくは、この話を、おとぎ話みたいに、はじめたかったのです。そして、こんなふうに話したかったのです。「むかし、むかし、ひとりの王子さまがおりました。その王子さまは、じぶんより、ほんのちょっと大きい星を家にしていました。そしてお友だちをひとり、ほしがっていらっしゃいました……」
 こうすると、ものそのもの、ことそのことをたいせつにする人には、話がもっともっとほんとうらしくなったでしょうに。
 というのは、ぼくは、この本を、寝そべったりなんかして、読んでもらいたくないからです。ぼくは、王子さまとの思い出を話すのが、ほんとにかなしいのです。あの友だちがヒツジをつれて、どこかへいってしまってから、もう六年にもなります。あの友だちのことを、いま、ここにこうして書くのは、あの友だちを忘れないためなのです。友だちを忘れるというのは、かなしいことです。だれもが、友だちらしい友だちをもっているわけではなりません。それに、ぼくも、そのうち、数字しかおもしろがらないおとなと、同じ人間になるかもしれません。それだからこそ、ぼくは、えのぐ箱とエンピツを買ったのです。六つのとき、ウワバミの内がわと外がわをかいたきりで、ほかには、なんの絵もかいたことのないぼくが、いま、この年になって、また絵をかくのは、なかなかのことです。



たいがい僕は「悪いね。」何て思いながら寝転がったまま星の王子さまを読みすすめた。3つくらいの時に親に読んでもらってから、多分6回くらい読んだと思う。

レイモンド・カーヴァー

レイモンド・カーヴァーの短編は無駄がなくスマートでシックだ。
「物語」の持つ力をまざまざと見せつけられる。

彼の物語は誰にでも"起こりえる"ような出来事を書いている。
例えば子供の頃釣りに行った話であったり、レストランで変わったウェイトレスに会った話であったり、子供を交通事故でなくすような話だ。
彼の晩年の作品の中に出てくる死を間際にした小説家はこう言っている

「自分には、政治的、宗教的、哲学的な世界観が欠けている。私は毎月それを取り替えている。だから私は自分の書くものの世界を限定しないわけにはいかないのだ。私の主人公がどのように愛し、結婚し、子供を生み、死に、どんな風に喋るのかというようなことに。」

そのような物語のなかで、それがただのありふれた物語で終わらないのはそこに必ず暗示的な出来事が介在することにある、と僕は思う。
日常では無くても我々に起こりえる出来事の中に暗示的な出来事が隠し味のように用意されている。

僕は我々の人生における目に見えない本当に大切なことと"うまくやっていく"ために暗示的な出来事の暗示性をしっかりと見つめることがとても重要なことなんじゃないかと考えている。
僕はそういうものを何故だか信じているし、自分の進むべき道を示しているものだと思っている。その指し示す道が結果として「正しい」とか「間違っている」ということはそれほど問題ではない。こんなことを言うと運命論者扱いされそうだが。それはただの結果であってそうなるべきだった出来事であるように思える。

僕にできることはその暗示的出来事を見逃さないように耳をすまし、その暗示性を時間をかけてしっかりと読みとることだ。そしてそれが、僕の伝記を書いたとしてもそれほど目を引くところの無いような凡庸な人生の意味(そんなものがあるとすれば)を知るうえで最も重要なことなんじゃないかと思うんだ。特別な根拠はないけど。ははは。


そういうものがレイモンド・カーヴァーの短編集には詰まっている。この現実がくだらなく色あせて思えるくらい。無駄なくスマートでシックに。

だからレイモンド・カーヴァーの小説を読むというようなことは、僕にとってとても重要なことなのだ。この現実の世界で耳をすまして"それ"を見逃さないために。

何かを書くことの意味

ーーこれはなかなかわかってもらえない様な気がするけど誤解を恐れずに言えば。
僕の言う理論をこねくり回したようなことは
みんな冗談なんだ。できの悪いジョークかもしれない。
あるいは、絶え間なく冗談を必要とするような真剣な話。
でもそれは同じことなんだよ。
遅めの朝ご飯と早めの昼ご飯みたいなもの。
そういう類の物事ってよくあることだと思うな。
ーーすごくひまなんですね。
ーーまぁひまなのかもしれない。でも必要なことでもあるんだよ。
例えば文章を書くというような行為は僕にとって。
雪かきとか。花火とか。そういう類のことなんだよ。
雪がふってくると雪かきをしなきゃいけないということ。
あるいは、特に必要はないけど夏には花火をするということ。
そういうことに似ているんじゃないかな。
それにそのふたつも遅ご飯早ご飯だよね。
うちの実家では"あひる"って呼んでた。朝ご飯と昼ご飯をひとつにまとめること。
ーーその例え好きですよね。
ーーそれにさ。マクドナルドなんて食わないっていいながらコカコーラを飲んでる様な奴は嫌いじゃないんだよ。チャーミングだよね。おれはもっと達が悪くて、これで南米の森が数㌶焼けてるんだぜって言いながらマックバーガーを食うタイプだけど。
だから冗談なんだよ。仙人になって世界から隠れる気はないからね。
でもずっとビートルズを聴いてる訳にもいかないし、ずっとkidAを聴いてるわけにもいかない。つまり、時代は変わってしまったし、世の中ゴミばっかりだなんてことは、もうみんな知ってることなんだ。
だから、踊りつづけないと行けない。それで雪かきをして花火をあげつづけるんだ。
ーーもうちょっとわかりやすく…。
ーーめんどくさい。

公平であることと公正であることの違い

ーーわかったんだ。
ーー何がですか?
ーーずっとひっかかていた問題に対するひとつの答えが。
ーーというと?
ーー村上春樹の小説の中のどこかに「『僕は公平であったとは言えないが、ずっと公正であろうと努力してきた。』公平であることと、公正であることは全く別の事柄なのだ。」というような、内容を記した文があったんだ。"というような"と言うのはこの文章は正しい引用ではなくて、結構探したんだけれど、どの小説のどの部分だったかどうしても見つからないんだ。だから、正直に言って、比べられていたものが「公正」と「公平」であったかどうかも定かでない。でもだからといって、この問題が僕にとって最重要な問題のひとつであることには変わりはない。公正であることと、公平であることはどう違うのか。
ーーもし根本の問題が間違っていたのなら。その答えに意味はないのではないですか?
ーーこの"表現"が正しいものであったかどうかはそれほど重要な問題ではない。我々のこの得体の知れない"心"と呼ばれるものは言語化した時点でその多くを損なっている。"言語"はただの道具にすぎない。そして同じ言葉であってもそれに対する個人のもつ世界によって、どのようにもとらえられる。であるから、引用としては正しくないかもしれないが、僕にとって春樹の示した問題は"この形"で存在したのだ。そしてこのような、言語がただの道具にすぎない、という事柄自体が今回の核心に近づく最も重要なキーでもあったんだ。

ーーふむ。
ーー公平であることと公正であることの違いはなにか?を考えるのは、それら、ふたつの"言葉"を春樹がどうとらえていたかを考えることである。国語辞典で『公平』と『公正』という言葉を引くと、どちらも『平等』という同じ言葉にでくわすことになる。では、彼の世界ではこれらの言葉をどのようにとらえていたのだろうか?
ーー確かに村上春樹の小説には公正という言葉が何度も出てきますし。興味ありますね。
ーー彼は小説を書くときに日本語を彼独自の体系に再構築し表現している。彼がエッセイの中で文章について語ったことをかき集めて、少なくとも僕は彼がそうしているのだと理解している。そのような手法は彼が日本の小説よりも、海外の小説を偏愛し読んでいたことにいくらか起因するのだろう。彼が小説を書くプロセスは、"心"を言語化し、それら言語を平易で体系化された文に落とし込む、という形であると考えられる。彼は、その中でもともと、『公正』という言葉を"fairness"に近い形でとらえていたのではないか。そして日本語の「平等であること」と英語の「平等であること(fairness)」にはその歴史的背景から考えてその意味合いの本質的な部分に"違い"があるのではないか、ということに気がついたんだ。
ーー歴史的背景?
ーー日本の歴史において平等と言えば『四民平等』を思い出す。士農工商という生まれ持った肩書きを無くし、我々日本人は同じであるとした。我々は同じでもいいのだという平等である。それに対して、自由と平等の国アメリカには黒人と白人と黄人がいて、彼等の平等とはその違いを許すことだった。我々は違ってもいいのだとい平等である。これらは同じ平等でありながら、いささか違うことではないだろうか?村上春樹は『公正』という言葉をこの『我々は違ってもいいのだ』という思想に対して用い、公正と公平における平等の概念の違いを感じていたのではないか。というのが僕の出した答えだ。
ーーなるほど。
ーー僕にとって『公正』であろうとすることはずっととても重要な事柄だったんだ。いままで『それは絶対に間違っている』と感じるにもかかわらず、その怒りの理由がうまく説明できなかったいくつかの事柄に対して、その本質に近づくことが出来たと思う。公平としての平等が公正を無視して振りかざされるとき僕は『おまえは絶対に間違っている』と感じたのだ。公正であろうとするというのはなかなかタフな生き方だ。だが、君と僕はあまりに違う、これは確かだ。人を"理解"するというようなことは、この世界のあらゆる事柄と同じように、その本質にせまるほど絶望的に不可能であるように感じられる。しかし、もちろんそれは"全く"不可能なことではない、永遠の闇に光が射す瞬間が"必ず"あることと同じように。

空想インタビュー

ーー本日は「3・3・3」(http://photokingdam.blog32.fc2.com/blog-date-20080525.html)について伺わせていただきます。よろしくお願いします。
ーーよろしく。
ーーでは、「3・3・3」ですが…
ーー今回の写真のコンセプトです。「スリースリースリー」ではありません。「さんかけさんかけさん」と読みます。ですから「27」と呼んでもらってもかまいません。あなたがそうしたければ。
ーーまず何故、白黒なのですか?
ーー白黒でもカラーでも、どちらでもいいのです。ただ撮った写真がカラーのままだと情報が過剰であると感じた場合に白黒にします。情報量を削ることによって(心理的な)フォーカスを研ぎ澄ますことで、よりリアルになるのです。つまりそれは、ロックンロールが3ピースで十分、多くて4人であることと同じです。カラーではtoo muchである場合が多いです。
ーーコンセプトというのは?
ーー3つの事象がいくつも重なりあっていることにあります。それは、それぞれの題名であり、「焦点距離シャッタースピード・フォーカス」という3つのカメラのハード的要素でもあります。また、「ブレ・ぼやけ・見切れ」という写真の特性です。これらそれぞれの「3」の存在と損失に対して意識的に撮影されています。
ーー2枚目の写真の方。それほど髭が濃く見えませんが…
ーー本人強い希望により、フォト・ショップ(画像編集ソフト)で髭を一本一本修正し消しました。本当は髭モジャです。それがすなわち、この写真における「損失」です。
ーー3枚目の七尾旅人というのは…
ーーBGMです。この写真は七尾旅人の「雨に撃たえば...!」をかけることで初めて完成します。
ーー花火は何色だったんですか?
ーー何色だったと思いますか?