レイモンド・カーヴァー

レイモンド・カーヴァーの短編は無駄がなくスマートでシックだ。
「物語」の持つ力をまざまざと見せつけられる。

彼の物語は誰にでも"起こりえる"ような出来事を書いている。
例えば子供の頃釣りに行った話であったり、レストランで変わったウェイトレスに会った話であったり、子供を交通事故でなくすような話だ。
彼の晩年の作品の中に出てくる死を間際にした小説家はこう言っている

「自分には、政治的、宗教的、哲学的な世界観が欠けている。私は毎月それを取り替えている。だから私は自分の書くものの世界を限定しないわけにはいかないのだ。私の主人公がどのように愛し、結婚し、子供を生み、死に、どんな風に喋るのかというようなことに。」

そのような物語のなかで、それがただのありふれた物語で終わらないのはそこに必ず暗示的な出来事が介在することにある、と僕は思う。
日常では無くても我々に起こりえる出来事の中に暗示的な出来事が隠し味のように用意されている。

僕は我々の人生における目に見えない本当に大切なことと"うまくやっていく"ために暗示的な出来事の暗示性をしっかりと見つめることがとても重要なことなんじゃないかと考えている。
僕はそういうものを何故だか信じているし、自分の進むべき道を示しているものだと思っている。その指し示す道が結果として「正しい」とか「間違っている」ということはそれほど問題ではない。こんなことを言うと運命論者扱いされそうだが。それはただの結果であってそうなるべきだった出来事であるように思える。

僕にできることはその暗示的出来事を見逃さないように耳をすまし、その暗示性を時間をかけてしっかりと読みとることだ。そしてそれが、僕の伝記を書いたとしてもそれほど目を引くところの無いような凡庸な人生の意味(そんなものがあるとすれば)を知るうえで最も重要なことなんじゃないかと思うんだ。特別な根拠はないけど。ははは。


そういうものがレイモンド・カーヴァーの短編集には詰まっている。この現実がくだらなく色あせて思えるくらい。無駄なくスマートでシックに。

だからレイモンド・カーヴァーの小説を読むというようなことは、僕にとってとても重要なことなのだ。この現実の世界で耳をすまして"それ"を見逃さないために。